伝説って

「伝説って?」
「ああ、いっぺんにすべてのことは話せない」
「伝説って?」
「既に失われてしまった過去、歴史、記憶。」
「伝説って?」
「きみのおじいさんのおじいさんのおじいさんのそのまたおじいさんが赤ん坊だった頃にはもう誰も」
「伝説って?」
「夜眠りに就く直前にその日の朝見たはずの夢を思い出そうとしているかのような」
「黄昏どきに夕日の方角から黒い陰が自分に呼びかけてきたときのきもち」
「どう考えても初めての場所なのに訪れるやんわりとした既視感」
「見通しの悪い林から響くいいようのない唸り声」
「自分の背では届かない位置にある壁のきず」
「呼吸の仕方がわからないとき」
「股下から覗く長い道」
「裸足で踏む泥」
「揺れる」
「揺れる」
「大木の切り株」
「向こう岸が仄明るい」
「いつだってそこにあるはず」
「どうしようもなく巨大な岩の裏側」
「大きな物音に振り返ったさきにあるもの」
「ほつれた衣服から出る糸を引くときの手応え」
「どこまでも見渡せる平原にぽつんと残されたかばん」
「入道雲の白くみえるところと灰色に見えるところのさかいめ」
「満月か半月か三日月かは分からないがぶ厚い雲越しに位置だけ分かる月」
「月にお月さまがいるってほんとう?」
「うさぎの腹にはうさぎがいるよ」
「ぼくがあなたを見ているならば」
「わたしがきみを見ているかもね」
「いつになったらここから出られる?」
「きみがおとなになった頃には」
「この手で触れられるものは何か?」
「じっさいに触ってみれば分かるさ」
「どれだけ前に進んでも前に進んだ気がしないんだよ」
「前と後ろにはどれほどの違いがあるというのだろう?」
「この床を掘ったら一体何が出てくるの?」
「何かが出てくるのならそれだけで儲けもんだよ」
「この空の向こう側まで行ってみたいんだ」
「向こう側が向こう側だったらいいけどね」
「伝説って?」
「わたしの孫の孫の孫のそのまた孫が年老いた頃にはもう既に」
「伝説って?」
「いまだ見たことのない未来、予言、創造」
「伝説って?」
「いやもうすべて語り終えてしまったよ」
「伝説って?」
「今日はもう寝なさい」