【小説】ゴリラとパイナップル

探し物はあんがい近くにあるという話です。

 

 

僕は、ゴリラとパイナップルの見分けがつかない。

 

物心ついた頃からそうだった。テレビ画面の向こう側でのそのそと歩くそれがゴリラなのかパイナップルなのか分からなかったし、母が下げるスーパーのレジ袋から覗くそれがゴリラなのかパイナップルなのか分からなかった。僕がもし道端で突然ゴリラもしくはパイナップルに出くわしたなら、周囲の人間の顔色を伺うまでそれが動物園から脱走したゴリラなのか主婦の自転車のカゴから落ちたパイナップルなのかを判断することができない。周囲に人がいなければお手上げだ。

 

幼い頃の僕はとても聡明だった。おかげでゴリラとパイナップルが別物であることにかなり早く気がつくことができた。当時幼稚園児だった僕は何気なしに眺めていた動物図鑑に被子植物の果実が紛れ込んでいることに気がついて母に文句を言った。その時の母の曖昧な顔を見て何かがおかしいと思い、それ以来極力公共の場でゴリラもしくはパイナップルについて言及することを避けるように心がけた程度には、幼い頃の僕は聡明だったのだ。

 

この体質は長いこと僕を悩ませた。皆が当たり前にできることができないのだ。それも「走るのが遅い」とか「朝起きられない」とかそういった類ではなく、認識レベルの話だ。僕は他人と違う世界を見ることが耐えられなかった。どうにかゴリラとパイナップルの相違点を見出そうと考えた時、思い浮かんだのが近くの寂れた動物園だった。

 

そこには一頭の雄ゴリラがいた。彼は僕がいつ見に来ても檻の隅の方でじっと座ってこちらを向いていた。あまりに動かないものだから僕は未だに彼が実は雄パイナップルであった可能性を捨てきれていない。こちらから見つめると見つめ返してくる彼の檻の前に立っていると、彼ではなく自分が檻の中にいる錯覚を覚えた。他のお客はそんな彼が気味の悪いものに思えるらしく、僕が見ている限り彼の前で立ち止まろうとする客は殆ど居なかったと記憶している。僕だって同じ気持ちだった。しかしコンプレックスの克服のためには仕方がなかった。朝起きて私鉄に揺られて駅を降り、閉園時間まで微動だにしない彼を眺めてから帰宅する、それが僕の休日の日課となった。

 

僕はゴリラと同じくらいパイナップルのことも観察した。彼に会いに行った帰り道、必ず駅前のスーパーに立ち寄り今日見た彼の姿が脳裏から消えないうちにパイナップルを穴が空くほど見つめた。日本の食品流通にゴリラが乗ったことがあるという話は聞いたことがなかったので、僕が見ていたそれは間違いなくパイナップルであったとは思うのだが、努力の甲斐なく僕にはゴリラとパイナップルの違いがどこまでも分からなかった。

 

ある日、動物園から彼の姿が消えた。看板によると病気療養とのことだった。檻の主が不在でも僕は休日ごとに足繁く動物園に通い、空の檻の前のベンチに座った。結論から言うと、彼は二度と帰ってくることはなかった。肺炎か何かで亡くなったという話を、彼のネームプレートが外されていることに気がついたその日に、僕のことを気にかけていたらしい清掃員に聞かされた。僕は「そうですか」だか「ありがとうございました」だかをもごもごと呟いてその場を後にした。僕の方もその動物園にもう二度と足を運ぶことはなかった。

 

随分と時間が流れて、もう休日ごとに動物園に行くどころか休日の午前に起床することすら難しくなってきた頃、僕の脳内に『彼』が現れた。僕の記憶の中の彼は既にひどく曖昧なものになっていたので、意識の中の彼の姿もまた曖昧だった。でも彼は彼だった。ゴリラかパイナップルか分からない彼は僕の方をじっと見つめる。僕は彼に語りかけた。

 

「君はゴリラとパイナップルどちらなんだ?」

「どっちだっていい。オレはオレだ」

 

お前喋れるのか。驚きだった。

 

彼は僕が何かを尋ねれば必ず応えてくれた。ただ、そのどれもが投げやりで、分かったような分からないような内容だった。例えば、

 

「昼食に何を食べようか迷っているんだがどうしたらいい?」

「どうだっていい。迷っているんなら全部同じだ」

 

「君はこのところ話題になっている爆破予告犯についてどう思っている?」

「なんとも思っていない。お前がその爆破予告犯本人なら答えは違っただろうが」

 

といった具合だ。初めのうちは面白がって彼に積極的に喋りかけていた僕も、彼の人を食ったような喋り方にイライラするようになった。幸い彼は僕から喋りかけない限りひとりでに語りだすことはなかった。ゴリラなのかパイナップルなのか分からない外見が僕の神経を否応なく逆なでしてきたということもあって、僕は脳内に居座る彼を忘れることに努めた。

 

ゴリラとパイナップルの見分けがつかないことと同様に、頭の中にゴリラなのかパイナップルなのか分からない何かが住み着いていることを僕は誰かに話したりはしなかった。話したら頭がおかしいと思われるというのもそうだが、劣等感の権化のようなものを持て余している事実を誰かに知られることが耐えられなかった。世界を見誤った僕は見誤った世界からの攻撃に苦しめられていた。

 

脳内で彼を飼い続けた僕は、現在、妻子持ちのサラリーマンになっていた。驚いたことに、ゴリラとパイナップルの見分けがつかなくても定職につけるし、頭の中にゴリラなのかパイナップルなのか分からない何かが住み着いていてもベターハーフを見つけて結婚することができるのだ。動物園に通っていた頃の僕に知らせてあげたい気分だ。

 

妻とは大学で知り合った仲で、もうそれなりに長い付き合いになる。だが妻にもゴリラとパイナップルの見分けがつかないことについてまだ話していない。やはり幼い頃からの秘密、それもコンプレックスに関する話をするのはたとえ妻でも抵抗があった。言うならさっさと言っておけばよかったのに、籍を入れたら告白しよう、仕事が落ち着いてきたら告白しようとずるずると先延ばしにするたびに言いづらくなっていった。第一子が産まれて子育てが安定してきたら告白しよう、そこまで先延ばしにしたところで、大きな問題が発生した。

 

僕は、妻と娘の見分けがつかなくなった。

 

娘が誕生した瞬間からそうだった。つまり、朝目が覚めたら妻と娘の見分けがつかなくなっていたとかそういう話ではなく、初めから娘は妻と同じ姿だった。娘が生まれたのは一昨年のこと。連絡を受けて駆けつけた病室のベッドの上には、妻が二人いた。比喩でもなんでもなく僕にはそう見えたのだ。

 

その場で絶叫して廊下に飛び出さなかった僕を褒めてやりたかった。僕は動揺を押し隠すことに相当気を使いながら妻と思われる方に慎重に労いの言葉をかけた。どうやら正解だったようで惚けた顔の妻を抱いた疲れた顔の妻はにこりと笑顔を返してくれた。看護師立会いのもといくらかやり取りをするうちに、少なくとも看護師は妻と娘の区別がきちんと付いていることが分かってきた。またしてもおかしいのは僕の方だった。

 

ゴリラとパイナップルだけでなく妻と娘の見分けまでつかなくなった僕は、このことは一生隠し続けようと決意した。頭がおかしいと思われるなんてもんじゃない。妻がまっとうな思考力と行動力を持っていたら僕は精神病院行きだ。二つの秘密を背負いながら僕は健全な家庭の構築に尽力した。

 

妻と娘が退院してしばらくはあまり問題が起きなかったが、娘が立って歩けるようになると慎重な判断を余儀なくされた。目の前にいる彼女が妻なのか娘なのかを見極め、適切な対応をする。それだけの行為なのに一日に何度も要求されると流石に堪えた。何より今まで心の支えになってくれた妻が信用のならない存在になってしまったのが本当に辛かった。

 

娘が言葉を理解し意味だったセンテンスを発声するようになると事態は悪化の一途を辿った。短い感嘆詞で呼びかけられただけだと彼女がどちらなのか判断できないため、言葉を選んで何往復か会話を重ねる必要が生じた。妻だと思って頼みごとをしたら話が全く通じず怒声を上げて娘を泣かせてしまったところを妻に見られた時は背筋が凍る思いもした。秘密を抱え続けた僕は次第に彼女たちとの会話に疲れ始め、仕事に没頭することで彼女たちと関わることを避けるようになった。妻の方も僕の態度の異変に気がついたのか僕に必要以上に声をかけることがなくなり、短い対話の最中もどこかぎこちない様子だった。

 

あと何年かして娘の言語処理能力が上がると会話で彼女たちを判別することも困難になるだろう。そうでなくとも今の冷えきった夫婦関係を改善できる一手を打てる自信はなかった。この体質のせいで妻にも娘にも理不尽な怒りを抱いてしまっていたが、疲労でぼんやり虚空を見つめるたびに事故に見せかけて娘を殺害すれば解決するのではという考えが自然に湧いてくる自分にいちばんうんざりしていた。もう僕の精神状態と家庭環境は崩壊寸前だった。

 

限界を迎えた僕が助けを求めたのは彼だった。久方ぶりに意識に浮かんできたゴリラなのかパイナップルなのか分からない彼は、以前と変わらずじっと座って僕の方を向いていた。僕は彼に語りかける。

 

「なあ、どうしたら良いと思う?」

 

彼は応える。

 

「どっちだっていい」

 

僕は次の言葉を待ったが、それだけだった。二言目には必ず皮肉めいた言葉を投げっぱなした彼の口はどれだけ待っても開かなかった。不審に思って何度か同じ言葉をかけたが彼はこちらを見つめるだけだった。ついに僕は神だけでなく彼にも見放されたのだろうか。そもそもWhatの質問にWhichで返すのはテストだと不正解だ。そんなことを考えながらその日は頭痛で早めに布団に入った。

 

僕は夢を見た。そこには大きな円形のテーブルと一組の椅子があって、僕と彼女が対面で座っていた。テーブルの中央には暖かそうなスープ、そして僕と彼女の手元には腕よりも長い柄のスプーンがあった。僕は今まで見たことがない長さのスプーンの扱いに悪戦苦闘しながらスープを一匙すくった。それを見た彼女も僕と同様に、しかし僕より手際よくスープを一匙すくった。僕は彼女の顔を見る。彼女も僕の顔を見る。腕が辛くなってきたが彼女から目を逸らしてはいけない気がした。僕らは辛抱強くお互いを見つめる。見つめて、見つめて、僕の腕が限界を迎える直前、暗転。目を開けたら見慣れた自室の天井だった。

 

いつものように残業を理由に深夜遅くに帰宅した僕を、妻と思しき人が玄関で待ち構えていた。娘の夜泣きが止んでから日付を回って起きている妻を見るのは初めてだったように思う。無言で夕飯を温め直す妻の背中を僕は戦々恐々とした面持ちで見ていた。ついにこの日が来てしまった。円満離婚だろうか。慰謝料を請求されるのだろうか。裁判沙汰は勘弁願いたいな。僕が全面的に悪いのは認めるが暴力を振るったことはないはずだ。支度を終えた彼女が料理を食卓に並べて僕に食べるよう薦める。なるほど積もる話は腹を満たしてからということか。

 

夕飯はそれなりに豪勢だったのだが、味はしなかった。食感まで再現した食品サンプルを食べている気分だった。最後の一口を麦茶で胃に流し込んだ僕は食器を台所まで運んだ。その間彼女はずっとうつむいたまま食卓に座っていた。僕が元の席に戻ると、彼女がゆっくりと顔を上げて、口を開く。やめてくれ。その口から発せられる言葉が「おやすみなさい」であってくれ。

 

「あのね、実は、話があるの」

 

そうだろうね。

 

「私、」

 

聞きたくない。お前にその話を切り出させてしまった罪悪感で僕の心は張り裂けそうなんだ。

 

「私は、」

 

分かった。全て僕が悪い。金なら払おう。だからもう何も言わないでくれ。



「私は、夫と娘の見分けがつかない」



は?

 

「あの子が生まれた時からそうだった。二年前のあの日産科の看護師さんが抱えてきた赤ん坊は、どう見てもあなたにしか見えなかったの」

 

ちょっと、ちょっと待ってくれ。脳の処理が追いつかない。

 

「産まれてしばらくはどうにかなっていた。でもあの子が立って歩けるようになると問題が発生し始めた」

 

妻は僕の静止も聞かずに一心不乱に話し続けた。語って述べて喋って言った。内容をまとめると、概ね彼女は僕と同じような境遇だったが、彼女のほうが娘と接する時間が長い分数段深刻だった。今の今まで知らなかった。彼女の方も秘密を抱えていたなんて。淀みなく綴られ続けた彼女の物語が今日の日付に追いついたところで、言葉はピタリと止んで、放心したように彼女は背もたれに寄りかかる。

 

「ごめんなさい。今の今まで隠していて。でも話してあなたに頭がおかしくなったと思われるのが怖かった」

 

同感だ。

 

「あなたとあの子を間違えることが怖くてあなたと距離を置くようになってしまったことについては本当に申し訳ないと思っているの。でもそのことに気がついたのだろうあなたが残業を増やしてくれて心の何処かで感謝していた。我ながら最低だと思う」

 

それはこっちの台詞だよ。

 

「気持ち悪いよね? もう顔も見たくないよね? それは至極まっとうな反応だよ。夫と娘の見分けがつかない私はまともな家庭を築くことなんてできない。だからもう…もう…」

 

感極まって涙を流し始めた彼女には申し訳ないが、僕としては非常に晴れ晴れとした気分だった。悩んでいるのは僕だけじゃなかった上に同じ悩みを共有できるのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。それに、今なら彼の言葉の意味も分かる。僕はゆっくりと喋り出す。

 

 

「え?」

 

「どっちだっていい。お前は僕も娘も愛してくれるだろう? なら同じことだよ」

 

そう、どっちだってよかった。妻だって娘だって、ゴリラだってパイナップルだってどっちだっていいいのだ。要は心の持ちようだ。僕は妻と娘を同等に愛するし、妻も僕と娘を同等に愛してくれる。それだけだ。それ以上に何が必要だろうか?

 

「何を言っているか分からないんだけど」

 

そらそうだろうな。

 

「実は、僕の方からも話があるんだよ。長くなるけどいいかな?」

 

世界を見誤った夫婦はこれから見誤ったことを受け入れながら前へと進むだろう。それでいい。この世界は僕達の思い通りだ。世界が僕達に仇してきたらそれは僕達が世界に仇しているだけなのだ。明日は寝不足が確定したがこれほど清々しい気持ちになれたのは何年ぶりだろうか。僕は彼女に向けて僕の物語を綴りだす。頭の中で彼がにやりと笑った気がした。